wan chronicle

老犬との暮らし

加齢が加速している私、と良きサマリア人の話

金曜日にネイリストの娘に頼まれた事があって電車で大阪に行きました。まだ通勤時間帯でしたので、座ることはできず30分立っていたらそれだけで腰の調子が悪くなってきました。加齢&運動不足この上ないですね。

娘がネイル1級を持っているのですが、やはり経験は浅いので、甘皮処理の練習ですって。私は爪の手入れを全くしていないので、いい練習台になるそうです。(@_@)

帰りはびっこを引きながら、それでも折角来たから、と無印良品で買い物して帰りました。

膝も痛めているので今日は一日ゆっくり過ごすと固く決意していますƪ(˘⌣˘)ʃ

膝&腰が痛かったので、ここ二週間ほど体操は控えていたんです。そんな中での外出二日連続はダメでしたアチャー

それでも嬉しいのは自分よりチャビがまだ歩く元気があることです。

チャビでも毎日2時間は起きて庭にいますので、私も見習わないと(え)

しっかり立てました

前回予告していた聖書の中の譬え話ですが、

どの話にしようかと考え、わりと知っている人が多そうな「良きサマリア人」の話にします。

どんな話か言うと、律法学者がイエスに「永遠の生命を得るにはどうしたら良いか?」

と質問した際にイエスが彼に考えさせ、自分で答えさせます。

その答えが「神と隣り人を愛せよ。」と言うことでした。

律法学者が隣り人を愛していない自分を弁護しようと、「隣り人とは誰なのですか?」

と尋ねたときにイエスが話された例えがこの良きサマリア人の話です。

 

エスが答えて言われた、

「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

 

説明を加えて行くと、当時のユダヤ人は、ユダヤ人と他の民族の血や宗教の交じったサマリヤ人を大変嫌っていました。自分達を忌み嫌っているユダヤ人をサマリヤ人が助けた、と言うことから境界線のない愛の模範とされているこの話ですが、他にもっと隠された意味があります

登場人物である祭司とレビ人はモーセの律法では、神の律法の教師および模範として、神とその同胞に仕えるよう割り当てられていました。これらの神権者は,「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という戒めを十分に認識していました(旧約聖書レビ記19:18)。実際、レビ人は旅行者を経済的に援助したり、その他の方法で援助したりする責任を明確に負っていました(レビ記 25:35–36 を参照)

しかしイエスの話の中ではこの二人は律法に反してサマリヤ人を助けず見捨てました。

エスの時代には記述されているモーセの律法より、口頭で伝えられ都合の良いように解釈された律法を守っていて、自分達はユダヤ人以外を死から救う義務はないと考えていました。イエスはそこを指摘し、非難しています。

また、祭司とレビ人はこの話の中で「律法」を象徴していますが律法そのものが人を救うことはできないことも暗に含んでいます。

サマリヤ人はオリーブ油とワインで介抱しましたね。この油とワインは痛みを和らげ、傷を消毒する効果があります。これはキリストの贖いを象徴しています。キリストの贖いにより人の霊的な傷、言い換えれば犯した罪が浄められます。

罪を犯した事のない人(明らかに犯罪、と呼ばれるものにせばめられない意味で)はこの世界にいないので誰でも浄められる必要がありますね。

このサマリア人は怪我をした人を死から救いました。安全な場所、宿屋に連れて行き、助けてくれる人を雇ってくれました。イエスも自分が復活した事により、人を死から救います。贖いにより私たちの罪の代価を払ってくれました(霊的な死から救いました)。サマリヤ人の話はイエスが罪により傷ついている人を救う話です。

この譬え話には他にも細々とした象徴が隠れていますが、キリスト教徒でないと分かりづらいので大まかに説明してみました。

 

 

 

 

最後までお読みくださり本当にありがとうございます。