wan chronicle

老犬との暮らし

子供へのまなざし

タイトルは本の名前で、もう20年以上前、わが子が小さかった時に読んだ本です。

 

もう感動しまくりで小さな子を持つお母さん、これから母になる知人に貸しまくりました。

今インストラクターからのフィードバックを待っている私のエッセイも、この本から学んだことを主に書きました。

 

著者である佐々木正美先生は人を家という建物に例えていて、

立派な壁紙や家具は卒業した大学やら職業やらに例えられる、

そしてそれは後からでも入れ替えることができる、

 

けれども建物の肝心かなめの土台部分は子供が乳幼児期に完成する、と書かれてありました。

だれも家が完成してから床をめくって「立派な土台の上に建てられましたね」、

などという人はいない。けれどもその土台部分が建物の、また人の人生において重要な役目を果たすのだと。

 

土台がしっかりしていないと人生における地震や暴風雨があったとき

容易に崩れてしまいます。

その人生の土台部分の建築に最も深くかかわるのは母親です。

 

乳児は泣くことでしか自分の希望を伝えられない、

赤ちゃんが一生懸命泣くときにだれもおむつを替えてくれない、

ミルクをくれない、あやしてくれない、となると

赤ちゃんの心の中に努力をしても無駄なんだ・・・という無力感を与えてしまう、

とその本には書かれてありました。

 

反対に泣いた後希望を叶えられることで、努力すれば希望はかなえられる、

と赤ちゃんなりに学んでいるのだそうです。

 

わたしも赤ちゃんは泣くのが仕事、

と泣いているのをしばらく放置していることもありましたが

最後はかならずあやしながら希望を叶えるようにしていました。

 

またハイハイしだした子がなにかよくわからないものを見たとき、

必ずお母さんのほうを振り向くそうです。

その時に子供と目を合わすこと、それはエリクソンによれば、social referencingと呼ばれ、経験や感情を人と分かち合うことにつながるそうです。

 

振り返ってもお母さんは自分を見ていない、誰とも目が合わない、話しかけもされない、そんな経験を重ねた子は大きくなっても社会のルールを守れない子に育つそう。

 

駅前に通行の邪魔になるのでここに自転車を置かないでください、という張り紙を見てじゃあ明日から自転車でなくバスでこよう、と思う人と、無視してその場に自転車を置き続ける人の違いはそんな幼いころの経験に起因しているので、大人になってから直してもらおうとしてもなかなか難しいと。

 

三つ子の魂百まで、とはよく言ったもので科学的に裏付けられたことばだったんですね。

 

またこどもが2,3さいになってトイレトレーニングとか、スプーンやお箸を使って食べるとか、少しずつ教えることが始まります。

佐々木先生によると、子供に教える、という事は何度も何度も繰り返し話すこと、

そしていつできるようになるかは子供自身に決めさせること、

強制や親のコントロールのもとで育てることは子供の自律、言い換えれば自分で決めて成していく人になる事を妨げる、ともありました。

子供に忍耐強く教えていくとき、母親自身も忍耐とか、相手の心に響くように話す、とか、自分も学んでいきますね。

 

母親は自分は消耗しながらも子供を見守り、育てていきます。

愛情と自分の許す限りの時間の全てをかけて子供を育てることは次の世代への最も崇高で価値ある貢献だと思います。

 

で、父親は?というと、そんなお母さんを支えることが期待されていると思います。

 

夫は帰宅したときどんなに散らかっていたとしても一言も文句を言わなかったし、お皿を洗ってくれたし、休みの日は2,3時間でも子供を連れて出かけてくれました。

その習慣は子供が小学生くらいまで続きましたね。中学生になるとさすがにお父さんと出かける機会は減っていきましたが。

 

娘たちは一流大学を出たわけでもないですが、それぞれが自立し、

家を出て頑張っています。

また学生の時から人が見ている見ていないにかかわらず、

掃除とか当番とかはきちんとやっていたようです。

(担任がそう話していました。そしてみていないとさぼる子がとても多いとも。)

 

自分がそうであるように子供たちは完璧な人間ではありませんが、

そして私も大変未熟な母親だったとは思いますが、

母親になることは人生で最も意義のある経験だったと思います。

自分を捨てて、誰かの成長を助けることって、母親にでもならなければ、

私には無理だったと思います。

 

 

 

今日、わたしはお皿を洗わなかった
ベッドはぐちゃぐちゃ

浸けといたおむつは
だんだんくさくなってきた

きのうこぼした食べかすが
床の上からわたしを見ている

窓ガラスはよごれすぎてアートみたい
雨が降るまでこのままだとおもう

人に見られたら
なんていわれるか

ひどいねえとか、だらしないとか

今日一日、何をしてたの? とか

わたしは、この子が眠るまで、おっぱいをやっていた
わたしは、この子が泣きやむまで、ずっとだっこしていた
わたしは、この子とかくれんぼした
わたしは、この子のためにおもちゃを鳴らした、それはきゅうっと鳴った
わたしは、ぶらんこをゆすり、歌をうたった
わたしは、この子に、していいこととわるいことを、教えた

ほんとにいったい一日何をしていたのかな

たいしたことはしなかったね、
たぶん、それはほんと
でもこう考えれば、いいんじゃない?

今日一日、わたしは
澄んだ目をした、髪のふわふわな、この子のために
すごく大切なことをしていたんだって

そしてもし、そっちのほうがほんとなら、
わたしはちゃーんとやったわけだ

(読み人知らず ニュージーランドに伝わる詩)

 

赤ちゃんと家族のイラスト

 

 最後までお読みいただきありがとうございます。